母と秩父へ行って来ました。
秩父は母の生まれ故郷。
少し前に亡くなった叔父の遺品を形見分けするためです。
縁あって仕事でも何度か赴いていますが、母と一緒にレッドアロー号に乗るのは叔父の葬儀以来のことです。
叔父の生前、母は、叔父の家にあったお客様用の羽毛布団をもらう約束をしていたそうで、叔父の死後、何度もその話をしていました。
「羽毛布団なら、わざわざもらわなくても私がプレゼントするよ」と言っても、
母は、かたくなに「いらない。秩父の叔父さんともらう約束をしていたから」と拒みました。
あまり欲深くもない母なのですが、この叔父の羽毛布団の一件だけはどうにもかたくなで「なんでだろう」と、違和感がありました。
でも、今回、形見分けを済ませた母の顔が、「約束を果たしてスッキリした」という顔だったので、なんとなく腑に落ちました。
母が望んだのは布団そのものではなく、叔父との約束を果たすことだったのかな、と気がついたのです。
モノには人の想いがやどります。
もちろんモノはモノ。
物理的に何かが変わるわけではありません。
でも、モノを見る人、手に取る人が、そのモノに「持ち主の想い」を投影するのです。
持ち主が亡くなっていればなおさら。
生きている人は、亡くなった人のモノに込めた想いをどうしても受け止めたくなります。
相続の問題を多く扱っていると、相続人間での物や権利の紛争は、単なる経済的なプラスマイナスではなく、この「想い」の争いではないかと感じる場面があります。
法律だけで考えればプラスマイナスで済むシンプルな話だけれども、当事者同士ではドライに解決できない。
それは、遺産となったモノに投影する「故人の想い」がそれぞれの相続人により違うから。
「父親は家のモノは跡取りの兄の私に全て任せたいと言っていた」
「いや父は、半分ずつ、というのが口癖だった。兄弟で分けて欲しいと思っていたはずだ」など。
本人が亡くなっているためにもはや真実がわからず、ブラックボックスの中の「故人の想い」を、それぞれの相続人が想像し、主張するわけです。
相続ってこんなふうに、故人の想い、家族との関係などなど、形のない要素が関わる特殊な分野なのですよね。
だからこそ、そうした形のない要素に敬意を払いつつ、主張に沿う証拠を見つけ法的な結論に導くのが、相続に関わる専門家の役目であり必要なスキルだと思っています。
今回の秩父旅行で、母が「叔父との約束」を果たすことに立ち会えた経験も、今後の私のお役目のためのよい経験になりました。
なお、その後、布団の送料や、梱包作業のためにもう一度秩父に行く必要が出て来てしまうなど、結局かなりの時間とコストがかかる「約束」になりました(笑)。
まあ、それはそれ。こうして故人を思う時間が増えたならそれでよしですよね。
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