「世界はひとつじゃない。」
こんなことを言うと、ディズニーとかマイケルジャクソンとかに飛び蹴りされそうですが。 。
急に降ってきた言葉のおはなしその2。
ここのところ調停に行くことが多く、その中で思わず手帳にメモした言葉がコレ。
調停とは、申立人と相手方、紛争の両サイドの当事者が、順番に部屋に入って調停委員に自分の言い分についてお話をする手続きです。
当事者は順番に部屋に入るので、顔を合わせることはなく、存分に自分の言いたいことを話すことができます。
当事者が弁護士に依頼しているときは、弁護士が一緒に部屋に入り、本人に代わって言い分を言ったり、本人の主張を補足したりします。
だから当然、弁護士は、事前に打ち合わせをして聞いていた依頼者の主張を前提に手続きにのぞむわけです。
ところが、調停で、相手方(反対当事者)の反論を聞くと、真逆の主張が出てきます。
「夫から殴られた」という妻の主張に対して、夫は「先に手を出したのは妻の方だ」と言ってるとか。
「夫から離婚を求められた」という主張に対して「先に別れたいと言ったのは妻だった」とか。
こんなのは、あるあるを通り越して、常識です。
本当に、ものごとに対する認識は、本当に人それぞれなんですよね。
例えばこの六法も。
「ねずみ色の六法」
「深緑色の六法」
色ひとつ取ってもいくつもの認識がありえます。
あとよくあるのはペットボトルの水。
写真は昼に飲んだ体すこやか茶(脂肪と糖は吸収したくないですよね。)。
容器の中の水を
「半分も残っている水」と見るか
「ほとんど残っていない水」と見るか。
これも認識の違い。
多くの紛争は、この認識の違いから生まれます。
「言った言わない」はもちろんのこと、
「信号が赤だったのか青だったのか」
こんなわかりやすいことすら、認識が食い違うことが少なくありません。
「どちらかが嘘をついている」と思われがちですが、実はそうでもない。
両方とも、「自分が見たのは赤信号」「青信号」と心から確信しているケースも多いです。
これは、知覚する→記憶する→話す、という各過程にどうしても人の個性とか間違いが入り込むから。
その人の落ち度ではなく、人間のシステム上の限界です。
これまでの経験からもっと踏み込んだ本音を言うと、「体験した事実について正確に『真実』を話している(話せている)ケースなんて、ごくわずかである」とすら思っています。
なにしろ、認識のしかたが様々であることに加えて、自分の都合のいいように評価をプラスしたり、記憶を上書きしちゃったりするわけですから、それもまあ当然ですよね。
私たちは、自分の見たり経験した(認識した)事実に囲まれて生活をしています。
自分にとっての事実は1つ。
でも、その見たり経験している事実は、じつはその人それぞれ。
私たちを囲む、それぞれの事実のことを「世界」と呼ぶならば
世界は全然1つではないわけですね。
このことさえ押さえておけば、要らぬイライラは減ります。
この人は違う世界のひとだから考えも違うのね、と割り切れますし。
ちなみに、紛争解決のため、どうしても事実が何か白黒つけなければならないときに出てくるのが立証とか証拠というお話ですが、これはまた別の機会に。
無理に世界を1つにしようとすることこそトラブルのモトなんだろうと思うこの頃です。
とはいえ、ディズニーランドに行ったら、it’s a small worldに行っちゃいますけどね。
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