お盆、事務所も休みで一日急なオフができました。
「何をしようかな?自宅でダラダラ、買い物、ランチ一人飲み」。。と少し考えましたが、ふと「墓参りしよう」と思いました。
父が亡くなっており、そのお墓が埼玉県のちょっと遠いところにあるのです。
父と母は20年ほど前に離婚し、その後は父とは疎遠なままでした。
亡くなるひと月ほど前、最後に会った時には父は認知症になっていて、呼びかけても、「消防署が」とかよくわからないことを話していました。でも、なんだかとても元気で笑っていました。
正気の父と交わした最後の会話は、今から10年ほど前、父が骨折して救急車で運ばれたという事件があった時です。
救急車で運ばれた、と急に連絡が来て、驚いて飛んでいったら、父が笑いながら「骨折したよー」と言っていて呆れました。
でも父はわたしが10年振りくらいにきてくれたとことのほか喜んでいて、握手しました。
父と握手したのはあれが最初で最後です。
「優子ちゃんは英語ができるよな?特許をとりたいから申請文を英語翻訳してくれ」とか訳のわからないことを頼まれそうになったので、慌てて帰ってきてしまいました。
帰り際、父から「また焼肉いこうよ」と言われたのが正気の父との最後のやりとりでした。
最期を看取ることもなく、同居中も忙しくて私の人生の半分も一緒にいなかった父でした。
それなのに死んだ後になって、なんでわざわざ遠くの墓まで行こうと思い立ったのか、考えてもよくわかりません。
お墓に供える飲み物にも、晩年何が好きだったのかも分からず手ぶらで行きました。
お墓の前で手を合わせるのにも、何をお祈りしようかな。。と考えて結局、「焼肉行けなくてごめんね」とだけ謝りました。
お墓についてから2分くらいのほんの短い墓参りでした。
なぜ人は嘉参りをするのか。もうそこには誰もいないと知っているのに。
答えは人それぞれなのだろう。
でも、墓参りの時、故人と対話ができることは、故人に対して心残りを抱いている人にとっては救いになる時間なのでしょう。
人はこういう救いを求めてやまない。
だから墓参りは世界中でずっと失われない文化なのだと思います。
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